
秋季例祭 限定御朱印
9月1日~末日迄
月参りの御朱印 [長月]
9月1日~末日迄
即位礼奉祝の限定御朱印
10月1日~11月末日迄
月参りの御朱印 [神無月]
10月1日~末日迄
小野照崎神社では、月参りのおしるしとして毎月、2種の月替わりの限定御朱印を授与しております。
御朱印は神社を参拝した正式な証であり、見返すことで自分自身の振り返りにもなるもの。前の月からの自身の変化や季節の移ろいを感じつつ、心新たにお参りを頂ければ幸いです。
東京の下町「入谷」に鎮座する小野照崎神社。
御祭神は、百人一首にも撰された平安初期有数の歌人であり、漢詩は「日本の白楽天」と呼ばれ、その文才は天下無双、「その才は神に至る」と評される程の絵の大廈でもあり、法律に明るい当代きっての学者で、参議という国の要職も務めた 小野篁公(おの たかむら)です。
852年(仁寿2年)、篁公が御東下の際に住まわれた上野照崎の地に創建され、寛永寺の建立とともに現在の地に遷されました。
江戸後期には、 学問の神様である菅原道真公(すがわら みちざね)も回向院より御配神として当社に遷され、境内にある末社を含めると、 15柱もの神様がお祀りされています。
逸話
Story
本殿
History
御祭神
Worship
当社の御祭神である小野篁公は、平安時代の初期〜中期を生きた、実在の人物です。
国の中枢でその才を発揮した「学問の神」であり、漢詩、和歌、書道、絵画等、多彩なる感性で平安文化の大廈となり礎となった「芸能の神」、そして圧倒的な行動力と多彩な仕事を完遂するその手腕から「仕事の神」として、多くの逸話と共に広く信仰されております。
天明2年(1782)に築かれた富士塚「下谷坂本富士」。富士山に誰もが行けるわけではなかった時代、その霊験あらたかな姿を伝えるべく作られた直径は約15m、高さ約6mのミニチュアの富士山。一合目から順に十合目まで記されており、南無妙法と書かれた石碑や修験道の開祖である役小角の尊像も残る等、神仏習合の名残が見て取れます。先人の山守りの知恵によって今も当時の荘厳な姿を残しており、国の重要有形民俗文化財に指定されています。
毎年、夏越の大祓と富士山の開山に合わせた6月30日と7月1日の2日間に限り、一般の方々に開放されています。「不二(ふたつとない)」「不尽(つきることがない)」などがいわれとされる富士山。今もその霊験あらたかな神性を求め、多くの方々が富士塚に訪れます。
まだ名もない役者の卵として苦労していた方が御神徳を預かるべく当社に通い、今よりももっと活躍できるようにと願掛けをしました。
その願いは参拝の直後に通じ、ついに念願だった国民的映画の主役の座を手に入れ、その誓願は生涯守られたといわれています。
こうしたエピソードも手伝い、芸人や音楽家、 芸術家たちはもちろん、仕事の成功を願う多くの方々に足をお運びいただいております。
1923年(大正2年)、関東大震災で発生した激しい火が下町を包んでいました。その火の手は勢いを増し小野照崎神社にも迫ろうとしていましたが、寸前のところで火は食い止められ事なきを得ました。
また、東京中が業火で包まれた大東亜戦争の最中でも、空襲の被害を受けることなく無傷で過ごしました。この歴史的な二度の火難を逃れたのは、篁公の御神威と、住人たちの祈りが起こした奇跡かもしれません。その後、ますます御神威も加わり、今も変わらぬ姿を残しています。
小野照崎神社の御祭神である小野篁公は、平安初期に実在した政治家・公卿であり、平安時代を代表するマルチアーティストです。『小倉百人一首』には参議篁として収録され、漢詩が全盛の時代に高い和歌の腕前を誇り、漢詩も「日本の白楽天」と呼ばれるほどの腕前で、その文才は天下無双。狩野氏をして「博学広才にして人の及ぶところではない。その絵は神に至る」と言わしめた不羈の才人。一方で身長は188cmと巨躯で武芸にも秀でていたそうです。
法律にも精通し、参議という国の要職も務めた優れた政務能力を乞われ、夜は閻魔様の副官として働いたという逸話が多くの書に記されています。
まさに人間の限界を超えた多動の神であり、学問・芸術・芸能と、仕事と広く信仰のある神様です。
本殿は江戸末期、幕末の慶応2年(1866)の建造。
江戸では珍しく関東大震災、東京大空襲という2度の大火を免れ、軒下には鳳凰や龍、獅子、象などの見事な彫刻も残されています。
境内に鎮まるお稲荷さんは、元は「長左衛門稲荷」と呼ばれ、当社が上野照崎の地より遷る前から下谷坂本の地の地主神としてお祀りされ、多くの逸話を残してきた古いお社です。戦後、縁結びの神様である織姫神社が合祀され、今では恋愛と仕事を結ぶ、むすびの神様として深い信仰があります。
昭和を代表する囲碁棋士、藤沢秀行氏の功績を顕彰した記念碑が設置されています。
類稀な能書家でもあり、名言や書も多数残されていますが、その無頼を極めた破天荒な生き方から数々の伝説を生んだ人物で多くの人から愛され、その研ぎ澄まされた才を伝え残そうと、後進の育成にも力を注ぎました。氏のそうした生き方を象徴する言葉として、自身が最期に描いた「強烈な努力」の5文字が、碑には深く刻まれています。
大阪の「大阪四天王寺 庚申堂」、京都の「大黒山金剛寺 庚申堂」と共に「日本三大庚申」と呼ばれ崇敬を集めていた「喜宝院 入谷庚申堂」から遷祀され、道案内の神として信仰を集めた「猿田彦命」をお祀りした庚申塚。全十一基の塔のうち、最古のものは1647年(正保2年)につくられました。また、台座に「見ざる・聞かざる・云わざる」の三猿の像が掘られた青面金剛の塔は、聖徳太子作といわれる大阪四天王寺にある霊像を模造したものと伝えられています。
日本では古来より、神様への神聖な捧げ物として、絹がお供えされています。当社では、それぞれの願いを育むという意味を込め、絹になる前の繭を用いた「まゆ玉みくじ」や「幸せみくじ」をお授けしています。おみくじに記されている言葉の中から、特に強い願いを込めたいものを神様にお祈りしつつ、結び処にお納めください。
当社では、狛犬を始め、猿・狐・狼・獅子・鳳凰・龍・鶴など沢山の神使(しんし)が神様をお守りしています。当社の神使像は江戸から明治にかけての彫り物が多く、境内には表情の違う多様な神使が20体以上おります。是非ご覧ください。